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動き

ゴキブリを殺し、またひとつ成長した話

昼下がり、食事を済ませた僕は映画を観ていた。例によって、映画好きの友人から紹介された作品、クエンティン・タランティーノの『デス・プルーフ』である。現代に生きる多くの若者は、サブスクリプション・サービスのレコメンド機能から気に入った映画を観ているだろうが、僕にとって彼がレコメンド機能そのものだ。塩コショウを振りかけたレタスを頬張りながら、僕はその映画に熱中していた。タランティーノの作品は挿入歌がおしゃれだな、なんて呑気にしながら。その時、リビングとキッチンをつなぐ扉の向こう側に恐るべきものがいるとは考えもしなかった。

 

岐阜の実家でゴキブリに遭遇することなんて滅多になかった。数年に一度くらいの頻度だし、奴が現れるのは決まって深夜の父親が起きている時間だけだったので、僕がゴキブリを退治することは一度たりともなかった。一度たりとも。下宿生活を始めた僕の唯一、かつ、致命的な過ちとは、ゴキブリ退治童貞であったことだ。

 

話を戻そう。今日の昼下がり僕は映画を観ていた。そして、映画の途中に尿意を催した。また脱線するけれど、催すのって祭りか排泄物だけだよね、ウケる。とにかく、尿意を催した僕は、トイレへ行こうと、扉を開けた。そのとき、僕の視界に、すごい速さで移動する赤茶けた昆虫が入った。思わず鳥肌が立った。…ゴキブリだ。

いつかその時が来ると覚悟していたが、まさか今とは。人の死も、ゴキブリの登場も、いつ到来するのか誰も分からない。人生とはそのようなものなのだろう。

僕は初めてゴキブリを退治しなければならないという状況に置かれた。やるしかない。

 

とことん臆病な僕は、まず父親に電話をかけた。退治の方法を聞くという名目で。実際には、誰かと話さないと気が狂いそうだったから。幸いにも僕は父親と良好な関係を築くことができているので、業務中であった父だが、快く対応してくれた。息子の情けなさに呆れ、でかい声で笑っていた。笑い事ではない。

僕はゴキブリと対峙する。距離はおよそ2メートル。ソーシャルディスタンスを保っており、もし片方がウイルスに感染していようと、もう片方に感染させてしまう恐れはない。だが、そんな心配は無用である。僕が・このゴキブリを・仕留めるのだから。

父親と通話している間に、僕は棚の奥から新聞紙を取り出し、風呂場からカビキラーを持ってきた。僕がゴキブリと対等に戦うために与えられたウェポンだ。父は新聞紙で叩き潰せと命じる。言うのは簡単だ。そんなことが僕にできるとでも。現場にしわ寄せが行くという社会の仕組みを知った。

奴がいるのは、玄関近く、洗濯機の横の壁である。しかし、奴は、するすると不気味な速さで天井へ移動してしまった。ジ・エンド。新聞紙で叩き潰すのが困難な状況に陥った。

ゴキブリの姿を視界に入れて50分、つまり、父親と電話を始めてから1時間弱が経過し、呆れられた僕は電話を切られた。孤独が僕を襲う。

 

身内がだめなら恋人だ。今日はとことんへっぽこになってやろうじゃないか。僕はすぐさま恋人に電話をかけた。ゴキブリが出た、と伝えるとえぇ~と可愛らしい声を上げた彼女。好きだ。彼女の前ではかっこいい姿を見せなければと僕は闘志を燃やした。結果から述べれば、彼女の前でかっこいい姿を見せることは叶わなかった。

類は恋人を呼ぶ、とはよく言ったもので、僕の恋人も害虫駆除はてんてんにだめだ。僕と同等、もしくはそれ以下の退治力しかない。そんなことはどうでもいいのだ。僕は彼女から的確なアドバイスは求めていない。ただ、僕を勇気づけてほしかった。

天井に張り付いたゴキブリはピクリとも動かない。ようやく動いたかと思えば、部屋の角へ向かい、本格的に叩くのが困難になってしまった。スマートフォンのスピーカーから「がんばれ~」と聞こえる。僕はゴキブリをにらみ続ける。ゴキブリは触角をゆらゆらと動かす。頼むから今ここで寿命を迎えて死んでくれと願う。だが、あの驚異的なスピードを目撃してしまった今、奴が生命力に満ち溢れた不屈の存在だという事実を受け入れるしかない。

恋人と電話をして50分が経過した。彼女はバイトへ行かなければならないと言って、電話を切った。長い間醜態を晒した。僕は嫌われてしまっただろうか。ゴキブリを退治できない彼氏なんてみっともないもんな。もちろん、そのときそんなことを考えられる脳みそ持っていない。

 

恋人がだめなら友人だ。僕は、おなじみ映画好きの友人に電話をかけた。応じてくれた彼はちょうど『愛のむき出し』という映画の鑑賞中だった。自身のキャラを保つ姿勢に感服した。だが、僕の電話によって彼の至福のひと時は一時中断となる。

彼はゴキブリ退治経験者だ。「天井に張り付いたゴキブリは刺激を与えると滑空する」と素晴らしい情報を教えてくれた。ありがとう。もう僕には何もできない。

3時間も経てば、視界にゴキブリがいる状況に慣れる。僕は最初ほど動揺していなかった。太陽は沈み始め、そろそろ気合を入れないとだめだなと思っていた。

洗濯機の上の天井ではなく、玄関側の天井まで誘導すればなんとか勝算があると考え、奴を誘導する作戦に出た。もうそのとき、僕が奴を仕留めるために使えるウェポンはカビキラーしか残っていなかった。「5分で根に効く」とパッケージに書かれたコピーが僕を鼓舞した。やるしかない。

新聞紙でなんとか玄関側へ誘導した。

僕はノズルを奴に向ける。僕の顔面に滑空するという最悪の事態を想定してしまい、カビキラーを下ろす。

再び僕はノズルを向ける。むりだ。まだできない。

これを何十回と繰り返したのち、僕は決心した。

 

全神経をトリガーを引っ掛けた指に集中させる。トリガーを引く。純白の泡がゴキブリに噴射される。奴はひらひらと宙を舞い、玄関の扉へ。僕は悲鳴を上げながら、何度も何度も泡を噴射する。奴は死なない。僕に向かって走ってくる。悲鳴を上げる。カビキラーを浴びせる。壁際へ追い込む。そして何度も、何度も、奴が微動だにしなくなるまで、僕はカビキラーを浴びせた。奴の動きが止まる。勝ったッ!3部完ッ!

 

友人にビデオ通話を通して、僕の勝利を報告する。褒めてくれる彼。僕は彼とは一生の友達でいようと強く思った。今度京都へ遊びに着たらご飯をおごってあげよう。

 

僕は戦友の遺体をトイレに流し、カビキラーで真っ白になった玄関を丁寧に掃除した。

父親、恋人、そして友人に感謝の言葉をLINEで伝えた。

尿意を催していたのを思い出し、トイレへ駆け込んだ。

 

ゴキブリを殺し、僕はまたひとつ大人になった。

 

 

この後、僕が何をしたのかは容易に想像ができるだろう。ドラッグストアまで自転車を走らせ、ゴキブリ避け・駆除グッズを買い込んだ。総額で2000円を超えた。値段など気にしていなかった。帰宅後すぐにグッズを使用し、この記事を書くに至った。

 

 

次はだれにも電話をしないでゴキブリを退治したい。

きっと無理だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕が購入したグッズ

ブラックキャップ ゴキブリ駆除剤 [12個入]

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  • 発売日: 2005/05/11
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品
 

 

アース製薬 天然ハーブのゴキブリよけ 4個入 [防除用医薬部外品]

アース製薬 天然ハーブのゴキブリよけ 4個入 [防除用医薬部外品]

  • 発売日: 2016/09/15
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品
 

 

ゴキジェットプロ ゴキブリ用殺虫スプレー [450mL]

ゴキジェットプロ ゴキブリ用殺虫スプレー [450mL]

  • 発売日: 2011/11/04
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品
 

 

KINCHO ゴキブリがいなくなるスプレー ゴキブリ駆除剤 200mL [防除用医薬部外品]