The Azure

夢は夢のままで

ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」感想

高校2年生の時、オーストラリアへ行く直前に読んだ作品の読書感想文を記録しておく。

 

車輪の下」を読んで 

   夏休みはこうなくてはならない、と夏の美しく生命力あふれる情景を語ったのは主人公ハンス・ギーベンラートだ。この物語は村で「神秘な花火が天から落ちて来た」と形容されるほどの才人であったハンスが、如何にして落ちこぼれていったかという悲しくも救いようのない物語である。

 

   ハンス・ギーベンラートという少年は極めて多感で素直な男の子であった。彼が、国家が地方の秀才を選ぶ試験をパスし、神学校へ入学できたのは彼が生まれつき聡明でかつ努力家であったのは言うまでもない。しかし私を含む読者が彼を魅力的だと感じたわけは、彼が天分のある子どもだったからではなく、彼が人一倍感度の高いアンテナを持っていたからだろう。そのアンテナは豊かな自然や語学の美しさ、人々の感情を受信して彼を成長させるはずであった。しかし彼が神学校へ入学したことで、勉学に追われる多忙な生活を送る羽目になってしまいそれは朽ちてしまった。あるいはハンスが自ら閉じたのかもしれない。どちらにせよ彼が成長していく過程でそのアンテナはひっそりと姿を消してしまったのだ。それは恐らく誰もが通るもしくは通った道なのではあるだろうがあまりにも惜しく感じた。物語の最後に、慣れない酒を浴びるように飲んだハンスは川で溺れてしまい若くしてその生涯を終える。冷たいのかもしれないが、私にとってこの結末は必然だ。ハンスの亡くなる描写を読んでいる時、私の彼を憐れむ感情は一切なくむしろ安堵でいっぱいであった。つまり彼にとってあの社会があまりにも生きづらいところだったのだ。ハンスが人よりも高い感受性を持っていてしまったがために、彼は生きる辛さから逃れることが出来なかったのだろうと思う。ハンスにとって悪の根源は社会であり大人であるのだが、彼らも彼らで完全なる害悪であるとは言えないのが難しくむず痒いとこでもある。彼らは将来性のあるハンスの為を思い、彼の花を咲かせようと頑丈なレールを敷いていたのだ。善意・努力家の賜物である。それに沿って進まざるを得なかったハンスは、そのレールが死へと続いているとは知る由もなかっただろう。そんな彼を救いだそうとした人物が二人いる。神学校の同僚であるヘルマン・ハイルナーと靴屋のフライクおじさんである。

 

   きちょうめんで努力家のハンスと気軽者で詩人のハイルナーが結んだ友情は傍から見てとても不釣りあいなものであった。ハンスはハイルナーの自由で熱のある生活や自分とはまるで違った観を呈するのを見て深く感心し一種の憧れを抱いたであろう。彼のハイルナーに向ける熱いまなざしは新しいものを見る時の好奇心をうかがえた。あるいは彼の経験し損ねた感覚を取り戻したいという欲を感じられた。彼はハイルナーとの友情について、あるときは誇りを持って守る宝であり、あるときは耐えがたい大きな重荷だったと語っている。ハンスはこれまでに感じた友情を越えた感情をハイルナーとの間に感じていたのであろう。間違いなくヘルマン・ハイルナーという少年はハンスにこれまでとは違った影響を与えていたのだ。しかしひょんなことから彼らはすれ違うようになってしまう。それから仲直りをしてから間もなく先生に反抗したハイルナーは放校の処分を受ける。ハイルナーが傍からいなくなることでハンスは自らの青春そのものを失ってしまったようになる。勉強もままならなくなり、体調を崩し、休学することになる。実質の退学になるとは彼はすでに予期していたであろう。

 

    ハンスの故郷の村に住む靴屋のフライクおじさんは、村では変わり者だと嘲笑されるようなそんな人だった。彼は神学校の入学試験の結果を待つハンスに、試験なんてものは、たいしたことじゃないと伝える。そんな言葉に聞く耳を持たないハンス。もっと靴屋がハンスに寄りそってあげていたら、ハンスの人生丸ごと変わっていたかもしれないのになと思う。又フライクおじさんは物語の最後、ハンスの埋葬の場面でハンスの父の前に姿を現しこう述べた。「あんたとわしもたぶんあの子のためにいろいろ手ぬかりをしてきたんじゃ」と。すべてわかっていたのはフライクおじさんただ一人だった。

 

   この物語は救いようのない物語だと前述したが、私はそれだけではないと考える。物語のあちらこちらにハンスが救われるためのヒントが散りばめられていた。もしそれを拾い上げていればハンスも救われていたかもしれない。彼は反面教師的に私たちに伝えてくれていたのだ。「自分の二の舞になんかなるなよ」と。そして私は彼の想いを真摯に受け取り、自分のこれからに思いを馳せ考え巡るのだ。将来どうするか、これからどうしていきたいか、なんて。夏休みはこうなくてはならない。